2009年07月30日

無の境地

自分の書いたものを泥臭いと感じ、二度と見たくないと思うのは、自分が濃く出ている時なんです。無で書いた書は、自分ももう一度見てみたいと思うんです。
(月刊ビューポイント2009年8月号、世界日報社、51ページ)
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国内外で活躍する書画家・小林芙蓉さんのインタビューはとても興味深いものだった。

自分が書いたものでも、
二度と見たくないものと
もう一度見たいと思うものがあるという。

その違いは、自分を濃く出して書いた時と
無で書いた時との差だという。

非常の興味深い話だ。

shodo.jpg

私も講議をビデオで撮られたりすることがあるが、
自分の講義も、とても見たくないものと、
また見たいと思うものがある。

この違いも、言われてみれば、
自分なりか、無の境地かによるのかもしれない。

原理講議をする上でも思い当ることがある。

講義するにおいて、

@初めは講義案の通りにやるのが精一杯。
 一字一句講義案に沿ってやる。

Aある程度慣れてくると、
 言い回しも上手になって、
 比喩やたとえも豊富になって、
 かなりアレンジされた面白い講義をするようになる。

 しかしこのような講義は何度も続けていくうちに、
 自分自身が復興しなくなってくる。飽きてくる。
 言葉の力が枯れてくるような感じを受けるようになる。

Bそして、もう一度、講義案通りの講義に戻る。
 時間とともに枯れるような自分なりの表現、言い回しはなくって、
 原理講論通りが一番力のある講義だと実感するようになる。

このAからBへの移行がちょっと大変だ。
それを成功させる秘訣は何か。
私の思うところを言わせてもらうなら、
すなわち、謙虚、滅我、一心帰依。

これが無の境地に通ずるのかもしれない。

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2009年07月27日

中村久子さんのこと

両手両足を切り落とされたこの体こそが、自分に人間というものを、人間としてどう生きるかということを教えてくれた、最高最大の先生であったのだ
(四肢切断・中村久子先生の一生、黒瀬f次郎、致知出版、58ページ)
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以前、中村久子さんという人を知って
すごい衝撃を受けたことを覚えている。

幼少時に両手両足を失い、
常人では理解できない苦労を重ねてきた末に
「手と足のないこの体こそが、私の人生の宝であった」
と言い切ってしまうこの方は何者か、と思った。

どうしてそこまで言えるのか
その心境を知りたかった。

こころの手足―中村久子自伝

同じ頃、駅頭でビラをもらった。
クリスチャンの伝道用のビラだった。

白人の女の子が素敵に笑う写真が載っていた。
ページをめくると全身が写っていて両腕がなかった。

素敵な笑顔と両腕のない体と
何か違和感を感じたのでそこにあった文章を読んでみた。

少女は生まれながら両腕がなく、いじめや冷笑にあっていた。
親を怨み、神を呪って大きくなった。

中学生の時、ある出会いがあった。
事業に失敗し自殺を考えていた青年実業家だった。
彼は両手のない女の子を見て驚いた。
足で、字を書き、料理をし、釣りまでする。

「こんな小さな女の子が両手もないのに、こんな一生懸命生きている。
 自分は五体満足の一人前の男なのに・・・。
 この子ができるなら私だってできる。
 自殺なんて馬鹿な考えはよしてやり直そう。」

彼は希望に満ちて帰って行った。

彼女は驚いた。
自分は何もしていないのに・・・
私の生きる姿を見て元気になって帰っていった。

その時、彼女ははっとした。
神様がなぜ私を両手のない体でこの地上に生まれ落としたか
その意味を悟った。

多くの人に希望を与える使命を
私は神様からいただいたのだ、と。

ハンディを背負った自分が元気に希望を持って生きることで、
多くの人に勇気と希望を与えることができるのだ。

その天意を悟った瞬間、
両手のない体で生まれてきたことが、
感謝に変わったという。

この話を読んで、
中村久子さんの到達した心の境地も
うっすらと分かった気がした。

作家・下村湖人も言っていた。
「悲運に処する最上の道は、何と言っても、悲運の中に天意を見出して
 それに感謝することでなければなりません。」

人生の達人たちが言うことは
ひと味もふた味も違う。

この境地は
人生を強く明るく逞しく生きる
極意なのかもしれない。

私も悲運を感謝に変える
この秘儀を習得したいと努力しているまっ最中だ。

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2009年07月26日

人の世は住みにくい

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
(草枕、夏目漱石、冒頭)
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智に働けば角が立つ。
情に掉させば流される。
意地を通せば窮屈だ。

知情意どれをとっても簡単にいかない。
本当に人の世は住みにくいと思う。
本当にそう思う。

MPj04015670000[1].jpg

この冒頭につづき
夏目漱石は次のように展開する。

「住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。
 どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。」

人の世での住みにくさを
詩、絵画、音楽、彫刻という芸術に
救いを見出している。

しかし、これは住みにくさを緩和するだけであって、
克服するまでには至っていない。

私は次のように言いたい。

「住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。
 どこへ越しても住みにくいと悟った時、神を求め、信仰が始まる。」

人の世は実に住みにくい。
話しても分かり合えない人もいるし、
悪意を持って近づいて来る人もいるし、
自分自身も良心に反することをしてしまうこともある。

このような人間関係に行き詰まり、
どうしようもなくなった時、
神に意識が向けられ、
成長、飛躍、昇華が起こるように思う。

摩擦がないと
歩けないし止まれないように

人の世に住みにくさがないと、
成長できないし、
立ち止まって考えを深めることもできないのでは。

この住みにくい世の中は
もともと神様が計画して、
住みにくく作ったものなのかもしれない。

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posted by デデボー at 14:11| 東京 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | 信仰 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月18日

「敬」の心

孟子の言葉に「愛して敬せざるは、これを獣畜するものなり」というものがあります。愛するだけで敬う心がなければ、動物を飼っているのと同じであり、人に対する態度ではないということです。
(七田式「魂の教育」、七田眞、講談社、75ページ)
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現在の相次ぐ少年犯罪の原因の1つが、
「敬」の心が子育ての中から失われてしまっているからではないか
という指摘には、十分うなずける。

敬う心がないから、傲慢、暴力、蹂躙などの
自己中心的な行為が行われるのではないか。

そして、子どもにとって、
母親は「愛」の対象であり、
父親は「敬」の対象であるという。

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つまり一家の中に「敬」があるかないかということは、
父親が尊敬される人間であるかないかにかかっているとういことだ。

尊敬する人―父親―から大切にされ重んじられれば、
子どもの中に自分を大切にする気持ちが育ち、
他人への思いやりが育ち、
わがままな思いをコントロールできる気持ちが育つという。

父親は尊敬される人間でいるように努力しなければならない。
子どもからは「敬」の対象であり、
母親からも「敬」を示されるようでなければならない。

とても高いハードルを突き付けられているように感じる・・・。

統一教会では
自分にとって、妻はメシヤであり、子供はメシヤである
と言われる。

メシヤ、つまり自分の救い主であるというのだ。

妻に、子どもに尊敬される人間になろうと
一生懸命に努力することで
自分が理想とする人格に近づいていくということだ。

妻と子どもがいてくれればこそ
自分が成長し続けられる。

大変だが、その代償として
妻と子どもたちから尊敬され、
良い家庭が築かれ、
子どもが立派に育つなら、
まったく文句はない。

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2009年07月15日

悲運に処する道

悲運におち入ってやけになる人がある。下の下である。
(青年の思索のために、下村湖人、新潮文庫、156ページ)
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自分が何も悪くもないのに、
悪い境遇に置かれてしまうことがある。

悲運とか、不運とかいう状態だ。

これをどう見つめていくかというのは
私たちの人生にとって結構大事な問題だ。

namida.bmp

最近は「挫折克服能力」というものが人間を評価する上で、
とても参考にされるという。

挫折しても挫折しても立ち上がる人こそが
最後に成功をおさめる人だからだ。

私は下村湖人先生の本から、この悲運を越える術を学んだ。
「悲運に処する道」という一節がある。

悲運におち入ってやけになる人がある。
下の下である。

やけにはならないが、弱々しくその境遇に流される人がある。
下の上である。

世を怨み、ぶつぶつ不平をならべながら、ともかくも建直しに努力する人がある。
中の下である。

世を怨んだり、不平をならべたりはしないが、意地を張り、歯をくいしばって努力する人がある。
中の上である。

すんだことはすんだこととして、極めて楽天的に、新たに第一歩から踏み出そうとする人がある。
ここいらになるともう上の部である。

しかしその楽天が、ただの気分であるかぎり、それではまだ危ない。そんな気分は、2度3度と打撃がつづいた場合には、とかくくずれがちなものだからである。

悲運に処する最上の道は、悲運の中に天意を見出して謙虚に自己を反省するとともに、それを一つの恩寵として感謝する心になることでなければならない。これがいわゆる運命に随順しつつ力強く魂の自由を確保する道なのである。

・悲運の中に、
・天意を見つけて、
・感謝する。

これこそが悲運を越えていく最強の道であるという。

ポイントは天意(神の意図)をみつける、というところだ。

私は、その後、聖書に触れ、原理講論を読むようになって、
この意味がよく分かるようなった。

ひとつの悲運を恨みとするか、感謝とするかは
その人の心次第。

わずかに聞こえる神様の
声のようなささやきのようなものを聞き取った時に
悲運を乗り越える力を得る。

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posted by デデボー at 01:14| 東京 ☀| Comment(4) | TrackBack(0) | 信仰 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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