2009年06月17日

個別的自衛権

緊急事態における領域保全は、個別的自衛権の発動とみなし武力行使を認めるべきである。
(世界日報6月16日12面)
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個別的自衛権とは、
他国からの武力攻撃に対し、実力をもってこれを阻止・排除する権利である。

つまり、自分の身の危険は自分で守るということだ。
これは本能領域であろう。

常識的に、この個別的自衛権は国際社会で認められている。
「戦争の放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認」の日本でももちろん認められている。
旧約聖書も「目には目を、歯には歯を」で、認めている。

しかし、新約聖書では「人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ」と、認めていない。
個別的自衛権をも放棄しているようだ。

これはめちゃくちゃだ。
生存するという最も基本的な権利までも放棄してしまっているように聞こえる。

イエス様のこのみ言は、2000年生き続けてきた。
こんなことやってたら身が持たない、と誰もが思いながら、
心の一部分で捨てて置けない、ひっかかるものを感じさせる。

実際、イエス様自身が潔く十字架にかかって
その結果、歴史に多くの平和を作ってきた実績がある。

汝の敵を愛せよ。
怨讐を愛せよ。
怨讐のために祈れ。

これらの聖人から発せられたみ言が、
世界を平和にする力を秘めている予感はなんとなくする。

しかし、砂漠に水をまくような、飢えたライオンの中に丸腰で入っていくような、
そんな無意味さを感じることも否めない。

このテーマは今後も自分が考え続けなければならないことのように思う。


posted by デデボー at 02:08| 東京 ☔| Comment(1) | 世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月16日

平和・現実・宗教

テポドン等の核装備、長距離化が進み、米本土に脅威を与え得るようになれば、日本独自の抑止力確保のため、非核三原則、専守防衛など防衛政策の根本的見直しが必要であろう。
(世界日報6月16日12面)
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平和・現実・宗教。
この3つを矛盾なく同居させる道はどこになるのだろう。
そんなことを考える。

現実的平和とは、軍事的抑止力による戦争のない状態であるようだ。
宗教的平和とは、愛と許しによる地球家族の実現だろう。

国際社会はいかに軍事的優位に立つかにやっきになっている。
汝の敵を愛せよ、怨讐のために祈れ、という宗教的要素の入る隙がないように見える。

北朝鮮のミサイルが飛んできている中では、
敵を愛するより敵から身を守る方に関心と意識は注がれる。

力の論理が支配するところに、
愛と許し、犠牲と奉仕を持ち込むには・・・。

なかなか一筋の光がみつからない。


posted by デデボー at 23:38| 東京 ☔| Comment(0) | 世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月11日

憲法9条

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
(日本国憲法第9条)
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「悪人に手向かうな。もし、誰かがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬も向けてやりなさい」(マタイ5/39)

日本は、クリスチャン人口1%というが、上の聖句を憲法に掲げて守っている国民とも言えなくもない。

「戦争の放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認」を掲げた日本国憲法はすばらしいものだ、と中高の教育で教えられ、私もその通り信じていた。

大学3年のとき、ホームステイで1か月アメリカに滞在したことがある。
そのとき近所の学生たちとホームパティをして、そのまま日米関係についてのディスカッションの場となった。

当時は牛肉・オレンジの自由化問題などで日米貿易摩擦が深刻化していた時期である。その辺のところは十分に勉強してきたから、ディスカッション望むところだ、という意気込みであった。

ところが、アメリカ学生たちは日本で騒がれているほど、この日米間の貿易問題には関心を持っていなかった。アメリカ人にとっては国内の数ある問題の一つくらいの感覚だったのかも知れない。

彼らがしきりに聞いてきたのは、「日本の誇るものは何だ」ということだった。

そこで私はお馬鹿なことに、憲法9条の話をしたのである。

彼らはあっけに取られ、それはアメリカが世界の警察の役割を果たして日本を守っているから成り立つことだ。もし、外国が日本に攻めてきて、日本に戦う武器も意欲もなかったら、日本はどうなる、と口をそろえて反論してきた。

武器を持たず戦争しないと公言していれば平和が訪れると日本人は本気で考えているのか、と平和ボケしたおめでたい日本人学生に呆れたことと思う。

私はというと、軍隊と戦争に対する頑固なアレルギー体質ができあがってしまっていたので、彼らの言っていることを素直に聞く耳が持てなかった。憲法9条の呪縛にすっかりかかっていたわけだ。

「人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ。」

この聖句も解釈理解を誤ると、平和ボケしたおめでたい信仰者になってしまう可能性があるのでは、と思うのだ。


posted by デデボー at 11:38| 東京 ☔| Comment(0) | 世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月10日

敵に対する時

外交には経済力、軍事力の十分な裏付けがなければ、楽器のないオーケストラのように、何の価値もない。この場合の経済力というのは、外交目的を受諾しなければ、経済制裁を加えて、国家および国民生活を苦境に陥れるという力であり、軍事力というのは、最後の手段として武力行使に訴えるぞという、一種の脅迫的な力である。
(世界日報6月8日16面)

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軍事力が戦争を抑止する、とはよく言われる。
力の裏づけがあってこそ、ならず者の暴行を牽制することができる。

しかし、聖書に
「悪人に手向かうな。もし、誰かがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬も向けてやりなさい」(マタイ5/39)と有名な聖句がある。

キリスト者は現実とこの聖句を、自分の中でどのように同居させているのだろうか、という疑問はずっとあった。

私自身も同居の難しさを何度も経験した。
実は今日も・・・

ガンジーやキング牧師は非暴力で大きな成果を収めたが、アメリカというキリスト教国家は強大な軍事力を持って世界に平和を維持させている。

敵に対する時・・・この問題はもうちょっと考えたい。


posted by デデボー at 23:30| 東京 ☀| Comment(0) | 世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月06日

運命共同体の作り方

国際社会は、国家という運命共同体がぶつかり合う戦場だ。
(Japan On the Globe(590)、伊勢雅臣、メルマガ)
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先月末、北朝鮮が1週間ばかりの間にミサイルを確か6発も発射した。

ここで素朴な疑問が湧く。

@北朝鮮はどうしてミサイルを連射するのか。
A国際社会はどうしてこの事態を止められないのか。

思うに、答えは簡単、
国際社会は国家という運命共同体がぶつかり合う戦場だからだ。

「運命共同体である国内社会」と「運命共同体がぶつかり合う国際社会」は世界が違う。

国内社会は助け合いが尊重される「ムラ社会」であり、国際社会は弱肉強食の「戦場」だ。

戦場では、力の論理が支配し、自分たちの利益獲得が最優先される。
情け容赦は禁物である。

国際社会は生きるか死ぬかの戦場なのだから、
今回の北朝鮮のミサイル問題でも、北朝鮮をはじめ関係各国は、
自国の利益追求というモノサシでもって判断して動く。
当然、それぞれの言い分をまとめるのは難しい。

この事態をどうすれば良いのか。

運命共同体の中では助け合いが存在するが、
運命共同体同士が対峙してしまうとぶつかり合ってしまう。

ならば、地球全部を一つの運命共同体にしてしまえばどうか。

地球を一つの国にしてしまう。
地球を一つのムラにしてしまう。

これが単純明快な解決策だ。

ここまで考えを進めていくと、
われらが文先生のなさっていることの偉大さに気づく。

文先生は国際結婚をすすめている。
One Family under God.のスローガンの下、
国際結婚をすすめている。

夫婦の愛が運命共同体・国家間の壁を崩し、
生まれてくる子供にはその壁自体が存在しない。

地球を一つの運命共同体に作り変えるには、
愛を持って結ばれる国際結婚をもってする!

地球のあり方それ自体を変えてしまう結婚とは
なんと素晴らしいことか。


posted by デデボー at 10:10| 東京 🌁| Comment(0) | 世界 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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